何かを探す夢を見た。
指先は白。
たてる音は、きしりきしり。
爪先は白。
たてる音は、ことりことり。
見えなくなった目で指先を這わせて地を探り、爪先を這わせて地を確かめ、隅から隅まで荒地を探す。
傍から見ればそれは、軽くなってしまった体が吹き荒ぶ風で飛ばされないように、必死に地表にしがみついているように見えるだろう。
夢の中の自分は、虚になった目をした骸骨だった。
ああ、生き延びたのだと思えたのは、友人が呆然としていた自分の腕を掴んだ時だと思う。
友人に腕を掴まれたまま塹壕を這い出したときには、あれだけ苦戦していたのが嘘のように、戦闘は終結していた。ほんの少し前までは、自分の隣から指示を求める声すら聞き取りにくかったものを。
今はむしろ静かなくらいだった。荒くなった自分の息と、心音、そして仲間たちの有り得ないものを見た時の、息を吸い込む音が大きく聞こえたくらいに。少なくとも戦場だったこの場所は、今やたんぱく質の焦げた臭いと煙に満ちる、静かな場所に変わっていた。耳がおかしくなるくらい聞いていた銃声や爆音は、どこにもなかった。
「全員、生きているな?」
日頃、あまり接することのない人間に対するように、あまり変化を見せない表情で確認してきた。
そうして自分はといえば、想像を絶する事態……いや、想像する余地を以前から与えられていたにもかかわらず、そこまで考え及ぶほどの想像力がなかったせいで、自分が生きているということと、何が起こったのかということを把握するだけで手一杯だった。
「生存人数確認。B-4地区派遣情報班クリア」
友人はといえば、茫然自失の体を晒す人間の頭数を簡単に数え、懐から取り出した、恐らくはこの地域に派遣された人数を記したメモを確認し、面倒そうにまた仕舞い込んだ。
「お、おい待てよ。人数確認だけで、名前の確認はしなくていいのか?」
ここにきてやっと頭が回りだし、それでは確認の不備だろうと口を出した。最初から最後まで派遣された場所で戦う兵士もいれば、自分たち情報班のように戦況によっては戦場中を駆け回らなきゃならない兵士もいる。何が起こるかわからない戦場では、この中の誰かが欠けて、別の班の誰かが何故か加わっているということだって起こり得る。『B-4地区派遣情報班』は確かに自分たちで、1人も欠けてはいないが、それにしたってその場にいた人間の頭数だけ、数えて済ませるというのはあまりに乱暴だ。
「君たちの班は後方支援本部に撤退だ。そこで改めて軍籍と照合してもらう」
ならこの場から、ようやく離れることができるというわけか。
昨今の兵士不足のツケを食らうかのように、昨晩この場所にぶち当たってから離れる余裕もなく攻撃を受け続けていた。
各ポイントの戦況、及びそれに関する情報の収集と分析にあたることが目的の、自分たち情報班が持ち歩く弾薬は戦闘を主とする他の班と比べ、格段に少ないうえに威力も弱い。主目的が敵を倒すことではないから、使用するのはせいぜい自分たちに危険が迫ったときくらい。
昨晩のようにすでに敵も味方も移動した後だと思っていたポイントで、思いもかけずばったりと敵に出会ったしまった場合、これではどうしようもなく不利だ。戦場の移動に使っていた軍用ジープは、載せてあった情報班用の高感度無線機ごと敵の攻撃を受けてあっさりと炎上。携帯している武器・弾薬は多くはなく飛距離も短いために、近い場所にいるといってもそれなりに遠い敵を狙えば無駄弾になりかねない。刃物を持っていても白兵戦でない限り銃に勝ることはそうない。かといって白兵戦に持ち込まれても自分を含め総勢4名では、奇襲でもしなければ勝ち目が見えず、銃弾が飛び交うなか、下準備もなしに効果的な奇襲ができるかといえばそれもできず。結局味方が作り残した塹壕に飛び込んだまま、ぎりぎり攻め込まれないだけの反撃をしつつ、自分たちの班の帰還が遅いことに気付いた誰かが探しに来てくれること、そしてその誰かが敵と戦えるだけの装備を持った、兵を率いてくることを祈っているうちに夜が明けてしまった。
夜が明ければ少しは銃撃も治まりそうなものだが、敵は敵で自分の近くに確実にいる自分たちの存在に怯えているらしい。銃撃の範囲と頻度から考えるに、敵の数はこちらの数を確実に上回っている。なのに相対してかなりの時間が経てば、いい加減にこちらの戦力がわかりそうなものだが、攻撃が始まった地点から動こうとしない。もしかしたら新兵か、それに毛が生えた程度のものかもしれない。おそらく抱え込んでいた弾薬を全て使い切るか、こちらが全滅しない限り、攻撃の手を休めようとはしないだろう。そして弾薬が切れたときにどうでるか。逃げてくれるなら良し。白兵戦に出た場合は疲れきった、そして相手を下回る自分たちには不利だとしか思えなかった。
そんな状況であったから、隊長である自分ですら安堵の溜息が出てきた。部下たちも目の前に広がる光景に圧倒されていたが、一応自分の命が助かったことに安堵しているようだった。
だが代わりは?
ここは前線。激戦区は移動したとはいえ、敵陣の前であり戦闘は激しく、なおかつ戦略上の要地でもある。現時点で友人によって一気に駆逐されたとはいえ、敵が兵を派遣したがるようなポイントを空にするわけにはいかず、それは自分たちの代わりが必要だということだ。
そこまで考えて間抜けなことに、今までちっとも疑問に思っていなかったことに思い当たった。
「ちょっと待て。なんでお前がここにいるんだ、ロイ」
「交替だ。君たちは帰って休め」
あっさりと言った顔は、さっきから変わらず無表情だった。
友人は、ロイは、後方支援本部よりも、ずっと後方。いまだ中央にいるはずだった。少なくとも昨日までは。
彼がこの場所にいるということは、とうとうこの戦争に国家錬金術師が投入されたということだ。
それはこの戦争が抜き差しならない戦況に陥ったということと、未だ結成されて間もない部隊だろうと、敵に同等の戦力がない限り、恐らく相当の短時間で圧倒的な勝利を約束しなければならないということ。その約束は投入初回である今回から、完璧な形で履行されなければならないこと。
そして国家錬金術師であるロイは、国によって支援される研究の代価に、これから大量の人間を殺さなければならないということ。
「おい、ロイ」
「上官命令だ、マース・ヒューズ。君たちは後方支援本部に即刻戻り、所属及び氏名の確認。その後は各自で心身の疲れを僅かでもとること」
まわりを見渡してもロイの仲間や部下らしき人影は、一切見当たらなかった。
この男は単身、この場を守りきり、攻め込む気でいるのだ。
そして今までのつきあいが、さきほどこの場で見せられた奇跡とは言い難い何かが嘘でないなら、戦況を見て利と取れば、あるいは彼を派遣してきた上層部がひと言命令を下せば、自分たちが死守してきたこの前線を、さらに敵の間近へと進めてしまうのだろう。錬金術師だけが知る理を駆使して。
自分たちが戻るべき後方を指差して動かない、部下1人つけていないロイについていこうかと思ったが、戦友である部下たちだけで返すわけにもいかない。手元の武器の弾薬はとっくに尽きている。なにより正直言って体が動かない。昨晩から続く戦闘と強いられた緊張は、常からは考え付かないほどの疲弊を齎していた。
生きて戻れることを喜ぶ部下に撤退の指示を出し、改めてロイの顔を見た。
自分をじっと見つめる黒々とした目は、初めて言葉を交わした士官学校の頃と変わっていないというのに、作られた無表情に口の中が苦くなる。
恐らく錬金術によらずとも、ロイが人を殺したのは初めてだ。国家錬金術師の資格をとる時には、こんな事態も起こりうることを想定していたはずだが、想定することと実行することには大きな違いがある。他を圧倒する力を身につける代償は予想以上に大きく、任務を遂行する難しさよりも、それを受け入れ、さらに上を目指さねばならないことのほうが難しいのだろう。普段ならばどんな時でも表情を取り繕ってみせるロイが、この有様だ。
他の国家錬金術師はどうでも、彼が潰れることには我慢ならなかった。
「無理しねぇで帰ってこいよ。支給品の酒、お前の分も残しといてやるぜ?」
人命救助の贖いが酒一杯とは言わないが、二人ともが戦闘を潜り抜けて酌み交わす酒なら、それなりの価値があるだろう。祝いの酒にしろ、死に逝く仲間のためにしろ、一人だけでは愚痴も祝いも言う相手がいないのだから。まして、死ぬつもりはないだろうが、ここで死んでも仕方がないという顔を見せる男には、絶対的な心残りを作ってやらなければならないのに、情けないことにそれすら考え付かないでいる。
これ以上に何を言ってやろうかと考えたとき、名前を呼ばれた。
「ヒューズ!!」
まったく、誰も彼もが油断していたとしか言いようがない。自分が呼ばれたのだと認知したときには、すでに足に熱さを感じていた。
きっちりと張られた布に太い針で穴を開けると、こんな音になるんだろうなと思うような音が、妙にはっきりと聞こえ、後から思い出したように血が噴出してきた。あれ?と不思議に思う間に左足から力が抜けて、立っていられなくなってしゃがみこんだ。
敵の銃弾に当たったんだと気付いたのは、それからだ。
これで帰れると気を抜いているところに、上官が撃たれたせいで部下たちは混乱している。
そんななか、ロイの手で再び塹壕の中に引き摺り戻された。ついでとばかりに部下たちも引き摺り込んだ。
頭上ではすぐに銃撃が始まってしまった。ロイに引きずり込まれなければ、部下諸共に蜂の巣になっていただろう。
「ちっ。これじゃ、こいつら帰れねえな」
ロイの登場のおかげで治まっていた銃撃が、また始まってしまった。
こちらと同じように、昨夜帰ってこなかった兵士たちを探しにきた敵の仲間が、想像を絶する惨事に突き当たってしまったのだろう。怒りに震えるか、もしくは恐れ戦くか。どちらにしても敵は銃を手に報復することを選んだ。それで撃たれたのが自分だけというのが幸運なくらいだ。
これでまた昨夜の状況に逆戻り、おまけにこちらの弾薬は尽きかけているとくれば、すんなり戻れると思っていただけに部下たちの表情は暗い。
「帰れる帰れないの前に、お前は今の自分を心配しろ」
弾を食らった左足はロイによって血止めされていた。
ここは戦場で、衛生班も手近にいない状況では満足な治療など受けられるはずもない。個々に簡易救急キットは支給されているが、そんなものはジープと一緒に炎上してしまっていた。ロイは短時間で敵を殲滅することが目的のため、身軽であるために荷物になるようなものは持ってきていなかった。
応急処置として、手近な布や衣服を裂いて作った包帯で傷口とそれに近い大きな血管を縛って圧迫し、血を止める。食らった弾丸は足に残っているが取り出すのに適した刃物がないし、適当ではない刃物もあるにはあるが摘出に時間がかかるのには違いないからそのままだ。身動きすれば神経にさわってひどく痛むが、それも諦めて動かないでいるよりほかない。消毒薬、か代用できるような酒があればいいのだが、それもないからあとは破傷風菌やそのほかの菌に感染しないことを祈るばかりだ。
とりあえずはっきりしていることは、自分がこれで動けなくなってしまったということだ。
もっと酷い負傷兵が自力で帰還するのは、よく耳にする。だがそれは自分のように情報収集目的の兵でななく、もっと戦闘の中枢を担う体力勝負の兵士の場合だ。疲弊しきった、普通に移動するにも疲れで足を引き摺る自分にはとても無理な話だ。
そうなれば取る手段はひとつしかないだろう。
「気ぃつけて帰れよ〜」
不安そうにする部下たちに陽気に手を振ってみれば、怒ったロイに殴られた。
動けない自分はここに残るしかないと結論を出してしまえば、あとは簡単……とは言いがたかった。
部下たちは足手まといの上官を担いででも帰るというし、ロイは引き摺ってでも持って帰れと部下たちに言う。
結局、自分たちが歩くにもよろよろしている部下たちは後方へ戻す。自分はこの塹壕に残って、部下たちの報告を受けた後方からの救援を待つ。ロイはこの塹壕と戦線を死守する。
とんだ足手まといのできあがり。
だが、ロイに表情が出てきたことに喜ぶ自分がいる。
これ以上動けそうにないからと言ったとき、この塹壕を守ると言いだしたのはまごうことなくロイからで、自分からそう言った以上、あれは塹壕を、その中にいる自分を守るために死にはしないだろう。ロイの死は自分の死に繋がるのだから。
思いもよらず出来てしまった楔には笑うしかない。
ロイが部下たちを逃がすため、弾幕を避けるために作った炎は見事としか言いようがなかった。
連続して弾かれる、発火布に包まれた指先から紡がれる炎。ぱちりという音は、一発の銃声よりも静かで絶大な威力を持っている。
しかし、何よりも圧巻だと、そう思ったのは自分たちの前に現れた時の炎。
助けてきてもらったというのに、さっきは体が震えた。
疲れ果て、現実のものとなりつつある死に怯えることも、うろたえることもなく、ぼんやりと同じような表情をした部下たちの顔を見比べ、なんとはなしに空を見上げた。穴の底から見えた切り取られたような形をした空は青く、ここが緑の野原であれば昇ったばかりの太陽に照らされた朝露が、きらきらと光るさまを想像させた。
その空が赤く染まったのは、唐突だった。
地表に掘った穴になす術もなく隠れていた、自分たちの頭上をまっすぐ敵に向って奔っていった炎。ちりちりと断片が触手を伸ばし、幾重にも重なった炎は、けれど自分たちには害を与えようとしなかった。代わりに表面だけが焼けて固く締まり、脆くなった塹壕の縁が熱いままぱらぱらと見上げた頬に、額に落ちてきて妙に感動した。
塹壕から出て見た空は、そこに炎があったことなど思わせないほど青く、けれどそうではない証拠が大地にはあった。
昨夜にはなかったロイの姿。ところどころ削り取られ、黒く焦げた土。たんぱく質の焦げる臭い。炭化した人体。今までその力の片鱗を知らされてきたにもかかわらず、ロイの力がそういうものだと理解できたのもその時だろう。
大きな力への戸惑いよりも先に、ロイの消えてしまった表情が気になってしまうあたり、自分もどうしようもないのだろうが。
「この状況で何を笑っているんだ、お前は?」
口の悪さは気安さの表れだと思っていたのは、間違いなかったことはこれで判明したようなものだ。
実は足から流れる血はまだ止まっていない。一応大きな血管を傷つけるような位置に銃弾を食らったわけではなかったし、止血もしているのだが、大きな傷である以上、じくじくと血は滲み出ている。気にはなるところだがこれ以上強く血管を圧迫すると、もし救援に時間がかかった場合、血流が滞った左足は壊死しかねない。壊死したら足を切断しなければ、今度は本当に命が危うくなるし、足全体に及ばず一部の壊死であってもより細菌に感染しやすくなる。そういえばなんとなく寒気がするが、これは失血のせいだろう。
相変わらず銃弾は止まず、下手に塹壕から顔を出したらその時点でお空の上に行けそうな気がする。部下たちが後方支援本部にたどり着くにはまだ時間がかかるし、さらにここまで救援がくるのはまだ先の話だ。はっきり言って状況は結構最悪だ。
それもここにロイがいなければ、の話だが。
「いやいや、この状況って結構、姫の危機に駆けつける王子だよな〜と思ってさ。や、この場合は王子の危機に駆けつける、逞しい姫かぁ?」
古今東西、姫君の窮地に駆けつけるのは必ず見目麗しい王子で、なおかつその王子は冗談だろうと笑ってしまうほど無敵でなければ、王子の条件を満たしていないらしい。この状況を考えると、姫君も王子もそれなりに歳を食った男で、実は姫君と王子の立場が逆だというのがまた大層笑えるが。
「何をバカなことを言い出したんだ。さてはさっきの傷で熱でも出てきたか」
口調とは裏腹に心配そうに額に寄せられた手を取って、いざ王子の口付けを。
「広い世の中、王子を助ける姫君ってことで」
手元がおぼつかないうえにまともに動けず、触れ合うというよりも噛み付くようになってしまったのも、なんとなく血の味のキスになってしまったのも不本意ではあるが。
「……お任せください、王子さま」
「期待してるぜ、お姫さま」
ひどくドスのきいた姫君の声に笑って、目を閉じた。
救援がくるまであと何時間か。
それまで二人とも生きているし、それからも生きている。そしたら酒を酌み交わせばいいし、血の味がしないキスでも、なんでもいい。一人じゃできないことならなんでもしようと思うし、二人きりでできることならなお大歓迎だ。
なによりこれでロイは肩書きの重みに潰れることも、罪悪感にふらついて死のうとすることも、今はとりあえずできなくなった。
いなくなってしまったロイを諦めきれず、世界の果てまで自分が死んだことも忘れて探し歩く夢を、現実になる可能性が少しでも減るのなら、多少の怪我を負おうとそれでいい。
たとえ、それが今だけのことだったとしても。
今はまだ、からだは血肉を帯びている。
今回のお題は、イシュヴァールでキスでした。
第2稿がきました。1枚増えた上
戦場っぽくてカッコよくなりました…・・
ひい様ありがとうございましたm(_ _)m
でもヒューズと部下たち4人で戦争していたとは……
2004.09.13 ray
一ヶ月以上うんうん言って、ようやく塹壕の中の2人の
イラストを描きました。
2004.11.04 ray