優美なラインを描くフォルム。
 差し込む光を浴びて、鈍く光を返すその身体。
 何より大事な命をつなぐため、彼女の身体は鋼鉄のように硬い。
 鋼の体に書き込まれた墨字の掠れまで、彼女の強さを現しているようだ。
 とぷりと揺れる水を抱えて、彼女は常に在る。
 そう、人気の少ない廊下の片隅や、発火率の高そうな某執務室にまで。
 彼女の名はバケツ。
 『火の用心』と書かれた、例え日頃は掃除用に使われているとしても、火急の際に誰よりも頼りになる、由緒正しき防火グッズである。












 気になっていた廊下の隅を拭き終え、フュリー曹長は非常に満足していた。
 掃除はもっと下っ端の下級兵の役目とはいえ、小姑のように小うるさく口出すものではない。下手に口を出せば煩がられるし、わざわざ嫌われるようなことをする気もない。
 ただ自分が気になっていただけなのだ。
 あの、廊下の隅にたまっていた埃が。
 埃ひとつなく、汚れひとつなく。まだワックスの香りが漂うほど、ツヤが出るほどに美しく磨きたてられた廊下に敵うものはなかなかない。ちょっと他の廊下との格差が気にならないといえば嘘になるが、おいおいそっちも少しづつ、自分が手をいれていけばいいだけの話だ。もはやこれは仕事というよりも、性格や趣味の域である。
 律儀な性格と相まって、大方の予想通り、フュリー曹長は生真面目で几帳面で、そして無類の綺麗好きであった。きらりと額に汗する姿は美々しく磨きあげた廊下や、女性にだけは人気の某大佐の笑顔よりも余程爽やかで、清々しくある。
 使っていた雑巾を濯ぎ、ぎゅ〜っと絞ってバケツのふちに掛ける。
 フュリーが気付いていてもなかなか手を出せなかったせいか、それとも積年の汚れのせいか。廊下の片隅を拭いた雑巾を洗った水は、すぐに濁ってしまった。
 でもまあ、問題はない。どうせこれは軍の規定上、一応各所定位置に置くことになっている消火用のバケツなのだ。掃除をこなす下級兵士たちもよく使っている。雑巾を片付けついでにバケツもすすいで綺麗な水を汲み直し、元の位置に戻しておけばいい。
 何も問題はない。
 建物の内部で起きた騒ぎに、彼が気付かなかったなら。














「……神様ってやつは残酷だよな」

「ヒューズ……」

 うろたえた素振りを隠しもせず、頭を抱え、肩を震わせた友人に、結構な衝撃を与えた覚えのある身としては、とにかくその名を呼んで落ち着かせるしか思いつかなかった。
 告白の内容が内容なだけに、受け入れられない可能性が高すぎるほど高いということはよくわかっていた。
 けれど彼は親友だった。
 こうして、声に出してはいけない想い人の名を明かしてしまうほどには。

「あんな…あんなちっさい奴にお前が惚れるなんざぁ、運命の女神が間違って糸を紡いじまったに違いねぇんだ! よりにもよってなんであんな豆に!!」

「っ、ヒューズ! それ以上言うな! いくら貴様でも許さん!!」

 ヒューズがふたりのあいだにある机を苦悶するかのように叩いた。それとともに吐き出された言葉に、ロイ・マスタングは表情を硬くし、想い人への非難の声を止めようとした。
 言っても聞き入れないようであれば実力行使で。相手の目に入るように上げた手には、赤く描かれた火蜥蜴の錬成陣。その威力は目前の友人のみならず、この国の中枢の誰もが知るところだった。
 それでも友人は口を閉ざすことはなかった。

「だってそーだろ!? 誰があいつにお前が惚れ込むと思うよ!? なんだってこーんな女グセの悪いやつが………可愛いエドに………俺の可愛い息子がーーーーーーーっ!!!」





 だって、彼の想い人の悪口じゃなくって、彼の悪口だし。





「…って、私の悪口かーーーーっ!!!」

「ったりめーだ、ボケェ! なーんで俺がエドの悪口を言わなきゃなんねーんだ! だいたいなあ、お前みたいに手当たり次第にそこらの女に声かけ手ぇかけしてた奴が、俺の可愛い息子に手ぇ出そうなんざ100万年早ぇえ!!」

 相手の眉間にビシリと突きつけた指の先まで、彼の気合が入っている。
 将来彼が娘が連れてきた相手に言うべき台詞は、こんな段階で使われてしまった。予行練習ならまだしも、なかば本番なあたりが言ってる側としても泣きそうだ。しかも言ってる相手は自分の親友。嗚呼、目頭が熱い。

「いつからエディがお前の息子だ、お前の子供は娘1人だろう!」

「……ふん」

 激昂に激昂で返し、またさらに激昂で返されるかと思いきや、意外にあっさりとした反応。……何も知らない相手を鼻で笑う行為があっさりと言うならば、だが。

「一緒に風呂に入った時点で、あいつは俺の息子と認定されたよーなもんだ!」

 ケッケッケと笑う声が聞こえそうな、自慢げな声にロイは愕然とする。ショックのあまり両手を机についた。執務机に力なくうなだれた彼の影が映る。
 まだ彼はエドワードと一緒に風呂に入ったことはない。それどころか気持ちが通じておらず、うっとおしがられて遠ざけられてまでいる。エディと呼ぶことすら許されるような雰囲気ではなく、情けないことにエドワードがいない時にだけそう呼んでいる有様だ。これでいいのか司令官。

「わ……わたしですら入ったことがないのに……」

「あー、こないだうちに来たときに連れ込んでなー」

 よくよく考えなくてもすぐにわかろうものだが、エドワードは弟のアルフォンスと共にセントラルのヒューズ邸に泊まったことがあるのだ。構いグセのあるヒューズが本を読み倒すエドワードを構わないはずがなく、当然風呂もその延長。もしアルフォンスが風呂に入れる身なら、アルフォンスも一緒に風呂に連れ込まれていただろう。本当の親子ほどに歳が離れているわけではないが、それに似た感情は生まれるものだ。
 しかし、そんなよく考えなくてもわかりそうな話であっても、恋に盲目な男の頭は別の理解をしていた。
 
「……ヒューズ……」

 ゆらりと身体を起こしたロイの目は、明らかにキレていた。

「お? おい、ロイ? ちょっと待て! 俺は豆にはなんにもしてねえっての!」

 優雅に。あくまでも優雅に白手をはめなおし、指の曲がり具合を確認する。絹糸で縫い取られた火蜥蜴が、そんな仕草に命を込められたかのようにうねりと動く。

「……なんにも?」

「なんにも、だ! だいたい俺が豆相手に何をするってんだ、お前じゃあるまいし!」

 身の危険を悟ったヒューズがすかさず身体をひくが、そんなことは焔の錬金術師には無駄な所作でしかなかった。
 顔をあげたロイの表情はにこやかだった。
 目の奥でメラメラと燃えあがる嫉妬の焔以外は。

「なんにも? 違うだろう、ヒューズ? エディと風呂に入った時点で万死に値するとは思わんかね?」

(ヤバイ。非常にヤバイ。こいつの脳の腐れ具合と、今後予想される行動は非常にヤバイ。どれくらいヤバイかってぇと、真面目に書類に押印している大総統の前で、女装のアームストロング少佐と並んで泥鰌すくいを踊るよりもヤバイ。むしろあのおっさんなら一緒に踊りださないまでも、手を叩いて喜んでくれそうだ。どうする、マース・ヒューズ。絶対絶命のピーンチ。美人の奥さんと可愛い娘を残したまま死にたかねぇぜ!)

 ゼロコンマ1秒でそんなことをつらつらと考えたヒューズは、答えを出すと親友に挨拶もせず、くるりと振り返って一目散に室外に飛び出た。
 反射的に閉めたドアにドンと何かがぶつかるような音が聞こえたが、彼は振り返りはしなかった。振り返らずに執務室を出て走り出す。
 それで正解だったかもしれない。
 なにせ一瞬にして灰になったドアからは、内乱従軍時よりもさらにイっちゃった目をした親友が、ゆっくりと歩み出てきたのだから。



 







「待てっ、ヒューズッ!!」

「人間万国ビックリショー相手に待てるかっ!! 待ってたら丸焼きにされんだろうがっ!!」

「ウェルダンが嫌ならミディアムローストに譲歩してやるとも!! 人からの好意は遠慮せずに受け取りたまえ!!」

 走り回りながら交わすこんな心暖まる会話も、この日に軍部最強ストッパーのホークアイ中尉が不在ならではである。
 そんなわけでストッパーになるべき人間がいないまま、軍部の壁はあちこちに焦げ跡をつけられていた。火が壁に接触した時点で周囲の人間が水をかけて回っているからまだいいものの、放置しておけばまちがいなく火の手はあがっているだろう。後先考えずに指パッチンしまくる大人の男、ロイ・マスタング(29)。職業軍人、人を使うはずの司令官。趣味・特技は放火。雨の日は無能。
 そう、雨である。雨の日のロイは無能。雨といえば水。つまりはロイに水をぶっかけてしまえばいいのだが、残念ながら彼に問答無用で水をぶっかけられる唯一の人であるホークアイはいなかった。このままではロイが放火するままに、軍舎は炎に包まれてしまう。

「大佐ー、そろそろ止めてくださいよー」

「止めとかないと明日中尉に怒られますよー」

 自分たちの言葉じゃロイは止まらないとわかっているだけに、部下たちがかける制止の言葉はかなり投げやりだ。
 投げやりだが止めねば明日までに軍は骨組みだけになっている。しかし下手に止めようとすると自分たちまで丸焼きにされかねない。誰だって命は惜しい。

「中尉に始末書を書かされますぞー」

「ああっ、明日出勤してきたホークアイになんと言えばいいのか(問題はそこではない)……」

 しかし神は彼らを見捨てなかった。
 神はある人物を遣わした。
 そう、この場合ホークアイよりも最強の人物、鋼の錬金術師エドワード・エルリックである。

「なにやってんの?」

 修羅場も潜り抜け続けると多少のことでは驚かないのか、エドワードは本職の軍人がワーワーいってるこの事態でもたじろがない。こんな訳のわからない騒ぎよりも、さっさと報告書を出して図書館で待っているアルフォンスと一緒に新たな本を読みふけりたいと思っている。この辺、ロイの想いはまったく通じていない。

「よくきた、エドワード!」

「いや、ナイス・タイミングだぜ、大将!」

 この騒ぎの中、困り顔の軍人にありがたがられても何も嬉しくない。
 しかしそろりと帰ろうとした両肩を、がっしりと上から捕まれてしまっては逃げようがなかった。

「えーと、何か用?」

「あれ、止めてくれ」

 半ば予想がつきながらも、これも礼儀として渋々と聞いてみたがやっぱり間違いだったと、相手の簡潔な答えに悟る。
 指差された先には指を鳴らしながら相手を追い掛け回すいい大人と、連続攻撃をひたすらかわすいい大人。
 歳をとってもあんな大人にはなりたくないと、子供の横顔が語っているのを、その子供を頼りの綱にしている大人たちは見て見ぬふりをした。

「中尉は?」

「今日まで休暇だ」

 彼女がいたらこんな事態にはなっていないだろうとの予測は、当然ながら当たっていて、ますます溜息をつきたくなった。

「あれ、止めるんだな?」

 将軍を除けば東方でほぼ最上位の大佐と中佐があれでは、残るは少佐しかいない。が、あんな2人を止められる少佐も滅多におらず、筆頭に上げられそうなアームストロング少佐はセントラルにいる。
 彼らにとってはナイス・タイミング、しかし自分にとっては最悪なタイミングにとうとう大きな溜息をついた。

「頼む! お前しか止められる奴がいないんだ!」

「お前だけが頼りだ!」

「無事に片付いたらお茶でもご馳走するから!」

「ドーナツもつけるから!」

 どの言葉が功を奏したのかは置いといて、エドワードは手近にあった水の入ったバケツを引っ掴んだ。

「あ、それはさっき……」

 止めるようなフュリーの声が聞こえたような気がしたが、エドワードは水がなみなみと入ったバケツをふりかぶった。













 さて、ここで問題です。
 水の入ったバケツを目標対象物に向って前方角度45度で突き出すと、中の水は前方に向って飛び、放物線を描きながら対象物に向って落下していきます。当然のことながらここでは水を出した後もバケツを両手で支えているわけですが、水を出す際、うっかり手を離してしまうとそのバケツはどうなるでしょう。(式・解答・各50点)














 答え。

 バシャッ! ベチャ! ―――ゴン! ガラン、ガラン、ガラン………。

 その音は葬列の鐘の音よりも静かに響いた。
 そして人々はあまりの衝撃に動きを止めた。
 何が起こったのか一瞬誰しもわからなかった。
 当事者の片割れがゆっくりと振り返り、犯人を確かめるまで。

「……わりぃ、手ぇすべった」

「……エ……は、鋼の?」

 騒ぎをあっさり止め、とどめに上司の頭にバケツと使用済み雑巾を落とした少年は、これまたあっさりと謝った。
 ロイの体がふらりと揺れる。
 想い人にとどめを刺された男は、打ち所が悪かったのか、バケツの一撃で地に伏した。雑巾を、その頭に乗せたまま。

「わーーーっ、大佐! しっかりしてくださいーーーーっ!!」

「おい、ロイ! しっかりしろ、傷は浅いぞ!!」

「誰か、担架! 医務室に運べ!」

 渾身の一撃で火元まで止めてしまった防火バケツは、ある意味防火グッズの本領発揮といえよう。「火の用心」の文字が落下と衝撃によって多少ひしゃげてしまっても、彼女は鈍色に輝いていた。
 とりあえず、明日発行の『週間東方軍部』トップ記事は差し替えられることは間違いなさそうだ。

『鋼の錬金術師、鋼のバケツで江戸火消し!!』

 実に新聞の質とロイの無能っぷりが問われる記事である。
 明日記事を読んだホークアイによって、ロイと記者の命が危険に晒されないことを祈っておこう。
 どこかでカラスがカァーと鳴いた。











 その後、軍部では防火用バケツを掃除に使わないように禁止令が出回ったらしいが、それが遵守されたかは不明である。







グッズにバケツを作ると言ったら小説を書いて下さいました。
どうもありがとうございます。
それにしても大佐の呪いはスゴイ!
プリンターの冥福を祈ります。

そーゆー私は原稿が終わらず、何かすっごく疲れてます。
イベントって5.5のはずだよな〜〜2004.5.1

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修羅場にイベント帰りの友人がお泊まりにきました。
いや〜予定では原稿が終わっていたハズなんすけど、
終わって無くて、製本の他、表紙の原稿を描いていた
だきました。誕生日にコレはなかったねぇ……
でも、ひい様には「理想の大佐!」とまで言っていただ
いたので結果オーライですよね。玲  2004.5.5


baketu